ソムリエ岩須(いわす)のブログ

まかせていただける

クリスマス&歳末セールまっただ中の我らがオンラインショップ「ボクモワイン」。ありがたいことに、連日、インターネットの海からざぶーんと大波が押し寄せてくるように、ご注文をいただいています。 画面の向こうには日本津々浦々のお客さま。いや、ニュージーランド在住の方が日本へのプレゼントに使ってくださることも多いので、ニュージーランドワインが好きなグローバルな皆さま、と呼ぶべきか。 そんな方々が、わざわざ我らのサイトを見つけ、僕が選んだ愛するニュージーランドワインを、「まあここなら信用できるかな」と、ぽちぽちと注文してくださっている。ひとつひとつのぽちぽちが集まって、ざぶーんと大波になり、その波を僕らは華麗にサーフする…いや、実際は必死にあっぷあっぷしながら発送をこなしているわけですが。 しかしまあ、なんとありがたいことだろうと思う。ニーズがある仕事っていいもんだ。それは、飲食店をやってきてヒマに殺されそうになった経験がなんどもあるので、実感としてとても強い。求められているということは、社会の中で「君は存在して良いよ」と承認されているのと同じだ。 さて、そんな発送業務の中でも、ひときわ頭を使うのが「おまかせセット」のセレクトだ。 はじめての方は、まあ大丈夫。なるべくニュージーランドワインへの扉となるような、代表的な味わいのものを選ぶようにしているからだ。 しかし3年以上やってきて、おまかせセットを複数回ご利用いただいている方も増えてきた。中にはもう20回以上このセットを注文してくださる猛者もいらっしゃる。 今回のセールでもそんなありがたい猛者を含む複数回組の方がけっこう多い。そういう方にどんなワインをセレクトするのか。これが僕の腕の見せ所であり、最も頭を使うところだ。 ひとつひとつのご注文に、お客さまの顔を想像しながらこれまでの購入履歴を開く。どんなワインを飲んできたのかを確認し、これからどんなワインならさらに楽しんでいただけるか、思いをめぐらせる。 これまでのオーダーでピノ・ノワールが多ければ、今度はすこし冒険してシラーも混ぜてみよう、とか。 通信欄に「シャルドネ2本よろしく」とあれば、異なる産地のシャルドネを飲み比べていただこう、とマールボロ産とホークス・ベイ産を選んでみる、とか。 「これなら喜んでいただけるかも」「いや、ちょっと冒険しすぎかな?」画面の前で思案しているうちにあっという間に時間が経っている。そして、「ええい、これが今の僕に出来るマックスだ」と最後に出荷ボタンを押す。 でも、やはりちゃんとお好み通りに出来たかどうかはわからなくて、毎回ドキドキしてしまう。 飲食店ならば、直接目の前で好みをヒアリングできるから、やりやすいし、外しにくい。でも、通販は「履歴」と「通信欄」が選定のヒントのすべてだ。正解だったかどうかは、リピートしてくださってはじめて、「前回ので大丈夫だったんだ」とわかる。 ただ、今回のセールでは、これまでのセールとは比べものならないくらい「おまかせセット」のリピートのオーダーが押し寄せている。これまで3年間やってきたこと、ちょっとは正解の部分もあったのかな、と今、小躍りしてこれを書いている。 ニーズがあるのは嬉しい。まかせていただけるのは、なお嬉しい。 今日もうんうん唸ってワインの選定、やっとります。セレクトだけで、もう3時間経っちゃった。皆さんが待っている。急がねば。 そして次の大波、どんと来い、です。

言い得て妙

「寒すぎて、冷凍餃子が耳にくっついている気分になる。」 とある本でこの表現を発見して、腹を抱えた。 わかる!わかります!そして、羨ましい。 こんなぴったりな気分を表す言葉はなかなかない。だって、耳の形は餃子みたいだし、極寒の中では耳がもの凄く冷たくなる。そして、冷凍餃子は今や誰もが知っていて触ったことがあるやつだ。 自分のものじゃない、冷たい耳状の物体がついている。感覚の麻痺具合まで伝わってきて、まさに言い得て妙。 膝を打ちまくりだ。こんな言葉を自分も生み出してみたい。そう思った。 ワインの界隈でも、先日似たような感動があった。それはニュージーランドのワインメーカーの話を聞く機会があったときのこと。 彼はこう言った。「僕らがつくるシラーは、【ダブルショット ピノ・ノワール】だ」と。 膝、連打!!! マニアでない方に補足しておくと、今、ワイン界隈ではクール・クライメート・シラーというのが流行っていて、いわゆる昔のぼってりこってり濃厚なシラー(シラーズ)ではなく、冷涼な気候のもとでつくられる、エレガントで爽やかなシラーが受けてきているのだ。 そのスタイルは、エレガント界のトップランナーであるピノ・ノワールほどは薄くない。されど、エレガントを持ちながらも濃い。それはピノを2倍濃くしたイメージ。 だからエスプレッソのダブルショット(倍のコーヒー豆を使って入れた濃い味)という比喩を使ったわけだ。 かっこいい! ダブルショット ピノノワール。これは冷涼シラーの表現の発明だと思う。羨ましいな。到底僕には到底思いつかないワードだ。 きっと、そういう言い得て妙な発明ができる人は、想像力が豊かで、普段から例え癖がついているんだろう。 僕も想像力を鍛えたい。 よし、では練習だ。先週登った東谷山の紅葉。あの感動的な景色をなにかに例えてみるとしよう。 「山頂のモミジは、青空に向かって燃える炎のようだった。」 ・・・つまらん。使い古されている。独創性ゼロだ。 では、趣向を変えて、 「その景色はまるで、焼き肉のタレが激しく飛び散った水色のTシャツだった。」 ・・・台無しだ。誰も共感できないものになってしまった。きれいな秋の空と紅葉を見て、タレで汚れたシャツくらいしか思いつかないところが恥ずかしい。 引き出しが少なすぎるのだ。ワインばっかり飲んでないで、本を読もう。そうしよう。

良き師

僕は「良き師」に恵まれてきた方だと思う。 今はもうやっていないけれど、若い頃はスキーが大好きだった。きっかけは中学3年のとき、よくスキーに行っている幼なじみのファミリーが「いっしょに行かない?」と誘ってくれたことだ。 あのとき、幼なじみのけいちゃんは、まったく経験のない僕に「直ちゃんは頭がいいからさ、スキーの本でボーゲンを勉強してから本番にのぞむといいよ」と言ってくれた。 頭がいいから、というのは、けいちゃんの優しさだ。僕が運動音痴であることを柔らかく言い換えてくれたということを、僕は知っていた。 僕はその優しい助言通り、近所の本屋で買ったスキーの本を片手に、家の中に座布団で傾斜をつけてイメトレした。 雪山に着くと、けいちゃんたちは腰が引けまくっている僕を、文字どおり、手取り足取り教えてくれた。 「さすが!予習してきただけあって、飲み込みがはやいね!」 なんておだててくれた。嬉しくなった。自分でも信じられないことに、半日でなんとかボーゲンが出来るようになっていた。 彼らはきっと僕なんかを教えるよりも、自分たちだけでスイスイ滑っていたかっただろう。それでも、その時間を僕のために使ってくれた。そしてあの半日のおかげで、僕のスキーの扉は開かれたのだ。 高校のスキー合宿も、大学時代に冬が来るたびに何回も雪山に行って楽しい思いをしたのも、すべて幼なじみが最初の先生だったおかげだ。 あのとき、「じゃあ頑張ってね。僕らは上に行ってくるから」と置き去りにされたら、間違いなく僕はゲレンデの楽しさを知らない人生だった。 今のワインの仕事もそうだ。ラジオディレクター時代、僕にワインの基礎を教えてくれた方がいたのがきっかけで「店をやるならワインだ」と思ったのだった。 あの「超ワインおたくの師」がいなかったら、今は別のことをやっていたと思う。 ニュージーランドの師は、従兄弟だ。もう現地に30年近く住んでいる。店をオープンするときに、現地からワインを送ってもらわなかったら、そしていっしょに現地のワイナリー巡りをしなかったら、今の僕はないと思う。 そんなことを振り返りながらふと思う。 もうすぐ49だ。人生折り返しを過ぎている。そろそろ僕も誰かの良き師にならないといけない年頃なんじゃないか、と。 いやいや、そうじゃない。僕に影響を与えてくれた良き師たちは、こいつの人生を変えてやろうと思ってアドバイスをしてくれたわけじゃない。 温かく接してくれた。丁寧に教えてくれた。そのおかげで、僕が勝手にそれを扉としたのだ。 そうだ。誰かの人生に影響を与えてやろうなんていうのはおごり以外の何物でもない。 ただ毎日、自分の好きなこと、伝えたいことを続けた結果、誰かがどこかで「おかげでよかったよ」と思ってくれたら、それでいい。直接言葉にされなくても、なんとなく伝わっている感触があればそれでじゅうぶんだ。 今の僕がやるべきこと。熱量を持って、伝えることを怠らないこと。これに尽きるかな。 ちなみに、僕はラジオの原稿は30年近く書いているけれど、そう言えば書き方をちゃんと教わったことがない。 だからいまだにつっかえつっかえだし、てにをはを間違えるし、たまに小林克也さんからクレームの電話がかかってくる始末だ。 どこかに、僕の文章の師はおらぬか。

野生酵母の謎

ワインを偏愛する者同士の会話で、たびたび話題になるのが酵母の話題だ。 酵母は、ぶどうジュースをワインに変える魔法使い。これがいなければ、いくら高級なぶどうでもただのジュース止まりだ。酵母には大きく分けて、培養酵母と野生酵母がある。前者は科学的に管理された安定派、後者は自然界のミステリアスな存在だ。 培養酵母は、その名の通り特定の性質を持つ酵母菌を選抜し、人工的に培養したもの。スーパーで売ってるパン酵母(イースト)ように粉状になっており、計算通りに発酵を進められる頼れる相棒だ。一方で野生酵母は、自然界にふわふわ漂っている無数の酵母菌たち。彼らは人間が手を加えることなく、勝手にぶどうジュースを発酵させてくれる。 とはいえ、野生酵母を使うにはリスクが伴う。発酵が遅れることもあれば、途中で止まってしまうこともある。それでも、野生酵母を選ぶワインメーカーたちがいる。「酵母を無理やりではなく、自然に任せたい。その土地ならではの味わいが出せるからね」と彼らは語る。その言葉には、どこかアーティスト的なロマンが漂う。 では、肝心の野生酵母はどこにいるのか? これは僕も長年気になっていた。「ぶどうの実に付いている」と書いてある文献もある。しかし、ニュージーランドの研究では「実際にはぶどうそのものにはほとんど付着していない」とのレポートもある。ではどこに? 蔵付き酵母のように、ワイナリーそのものに住み着いているのか? そんな疑問を抱えながら開催したのが、ニュージーランドの名門ワイナリー「トリニティ・ヒル」のイベントだ。25年以上チーフワインメーカーを務めるウォーレン・ギブソンさんが来日し、彼らのワインづくりについて語るというもの。しかもこのワイナリー、野生酵母を使用しているというではないか。 これはチャンスとばかりに質問してみた。 「ウォーレンさん、野生酵母ってどこにいるんですか?」 すると彼は少し笑って答えた。 「正直なところ、野生酵母がどこから来るのかは未だによく分かっていないんだ。」 なに・・・発酵の司令塔であるワインメーカーでさえ解明できていないとは!? 彼は続ける。 「僕たちがワインを学び始めた頃、野生酵母を使うなんてあり得ないと言われていた。でも試行錯誤を重ねるうちに、野生酵母がしっかり働く条件を経験的に掴めるようになったんだよ。それでも、どこからやってくるのかを突き詰めることはしていない。そんな時間なんてないんだよ。毎日やることだらけだからね。大事なのは理想の味を引き出す環境を整えることだと思ってるよ。」 彼の言葉には、科学と経験、そして自然や神秘的なものへの信頼が共存していた。 この話を聞きながら味わったシラーは、実に複雑で奥深く、エレガントだった。見事にまろやかだった。目に見えない酵母の力を信じて、その力を最大限に引き出そうとしてきた努力が、この調和した味わいを生むんだろうなと思った。 来年は彼らのワイナリーを訪ねて、さらに深く野生酵母の謎に迫ってみたい。

航海は続く

ボクモ15周年パーティー、無事に終えることができました。ありがたいことに、3日間とも満員御礼。 初日の地獄シャンソンから始まり、2日目のアイリッシュ、そして最終日の文化祭と、音楽と飲食の共演をお届けしました。 しかしわたくし、実はイベント直前でやらかしてしまいました。がっつりと体調を崩してしまったのだ。風邪なのか、なんなのか。もしかしてちょっと前に打ったインフルエンザワクチンの副反応なのか。熱は出ないし咳もない。でも、異常にだるいのだ。 初日は、身体を引きずりながら何とか完遂。2日目の朝は倦怠感でベッドから立ち上がるのが一苦労。これ、もう終わったんじゃなかろうか。絶望の二文字が脳裏をよぎる。が、2時間ほど昼寝をしたら、あら不思議、ちょっとマシに。最終日にはほぼ復活して、無事に3日間を乗り切れました。 ふと思うと、体調が回復してきたのって、迫力ある生演奏を間近で浴びたおかげじゃないかと思う。 蜂鳥あみ太さんの地獄の底から響くような歌声。悠情さんの麗しいフィドルの調べが体の芯に届き、免疫力が高まったんじゃないかと。へたな薬よりもいい音楽の方が体調不良には効く気がする。 あと、来てくださるお客さんが楽しそうにしている様子。これもよい薬になったと思う。楽しそうな顔を見ると、不思議と力が沸いてくる。 そして体に力が戻ってきて、頭がしゃっきりしてくると、オープン当時の気持ちが蘇ってきた。 イベントを積極的にやる飲食店がつくりたい。そんな無邪気な思いだけでボクモをスタートしたんだった。 それまで飲食店経営なんてやったことがなかった。今ならなんて無謀なことをと思うが、当時は無駄にやる気に満ちあふれていて、周りなんか見えておらず、己の無謀さなんてまるでわかっていなかった。よくもまあ、荒れ狂う大海原に急ごしらえの小舟でこぎ出したもんだと思う。 でもなんとか沈没せずに(コロナの大波はまじで辛かったけど)、15年持ちこたえて、航海を続けている。ありがたいことです。 パーティーには、最近ボクモを知ってくださった方や、ずいぶん前から、中にはオープン初日から通ってくださっているお客さんも来てくださった。嬉しいことに元スタッフもかけつけてくれた。胸が熱いよ。 なんだか、この会って、自分たちのやっていることを肯定していただくための会だったのかもしれない。みんな「君の小舟、存在していて良いよ」と、わざわざ僕らに勇気を与えるために来てくれたんだと思うと、ありがたさとともに、ちょっと申し訳ない気持ちにもなったりした。いただいた勇気、これからの営業でしっかりお返ししていきたい。 3日目の文化祭、シェフとのんちゃん(シェフの親友)によるオリジナルソング、沁みました。サプライズでボクモの店名の由来になったRADWIMPSの曲も披露してくれて、うるうるきました。二人のきれいなハーモニーを聴いて、完全に体内の悪いものは雲散霧消したよ。 イベントは楽しい。そして、体調を戻してくれる。進む勇気をくれる。またやろう。元気になった体で、航海は続く。

繋がりを感じる

なぜ人は異国の文化に触れたがるのだろう? これは僕にとっては永遠のテーマである。 若い頃は洋楽ばかり聴いていた。邦楽も聴いていたが、琴や尺八を使ったいわゆる純邦楽ではない。海の向こうの楽器と理論で作られた、いわば輸入品を日本で加工して親しみやすくした音楽だ。 そして、今は日本酒や焼酎じゃなくて、ワインだ。ふと立ち止まると、日本人のくせに日本固有の文化に愛が足りないんじゃないか、と我ながら思ってしまう。 これまでに、舶来品が好きになり、それを仕事にしている人生の先輩たちに、この質問をぶつけてきた。 なんで我々はこの業界にいるんですかね?と。なぜ日本人は舶来品に弱いんですかね、と。 しかし、すっきりする回答をもらったことは今のところない。 今時こういうときはAIかと思って、ChatGPTに尋ねてみる。 結果は・・・ 「日本には長い鎖国の時代があったため、西洋からの技術や文化が貴重なものであるという意識が根付いていました。明治維新以降、日本社会は先進的な西洋文化を取り入れることで発展を遂げました。この過程で、「舶来品」=「品質が良くて新しいもの」というイメージが定着したのです。 また、戦後の復興期において、アメリカやヨーロッパの製品が「憧れ」や「豊かさ」の象徴とされるようになり、舶来品がステータスシンボルとなりました。この時代の人々にとって、舶来品を持つことは経済的な成功や流行の最先端にいることを示す一種のステータスだったのです。 さらに、日本文化には古来から「他者から学ぶ」という精神があり、異文化を取り入れつつも自分たちの価値観に合わせて独自の形に発展させることが得意です。舶来品に対する強い関心は、新しいものや他文化への好奇心の表れでもあります。」 すごいなAI。なんとまあ、納得のいく答えでしょう。 この回答を数秒で出してくるとは、今まで永遠のテーマなんて思っていた自分はなんだったんだろうと思う。 明治維新で西洋に圧倒されたひいおじいちゃんたち、戦後の復興で豊かさを追い求めた祖父母と両親。 そういった異文化に向き合った上の世代の営みが、今の僕たちの趣向を作っているんだな。好奇心の旺盛さは、時代を超えて繋がっているものなんだな、と。 そして僕ははっとした。 もしかしたら、僕が舶来ものに惹かれる理由は、もうひとつ、遠い誰かとの繋がりを感じているからかも知れない、と。 ニュージーランドのワイナリーに行ったとき、働く彼らはこんなことを言った。 「僕らはワインというパーティーに遅れてやってきたんだ。だから必死で追いつこうとしているんだよ。」 その言葉に僕はしびれたのだ。 何千年も紡がれた重厚なワイン文化の中に、1980年代、突如としてに軽やかに現れたのがニュージーランドだ。 30歳を過ぎて、ひょんなことから飲食業に飛び込んだ自分もまた、遅れてきたやつだ。 伝統がなくたって、工夫と努力で追いつけるかもしれない。彼らはそう信じている。僕だってそうだ。 遠く離れているが、我々は新人同士という共通点がある。ワイナリーを巡ったとき、そんな繋がりを見つけられたことが嬉しかった。やっぱり繋がっている感覚っていいよ。勘違いだったとしてもね。心があったかくなるもん。 それにしてもすごいです。AIによって、上の世代との繋がりに気づかされ、横の同ジャンルの人との繋がりも思い出すことになるとは。機械から心のあったかさをもらえるなんて、不思議な時代になったもんだ。   さて、皆さんとの繋がりに支えられて15年。今週開催のボクモの周年パーティー、おかげさまで初日と3日はご予約で満席となりました。 11/16(土)は、まだ数席のご予約枠があります。この日は、アイルランド音楽、アイリッシュダンス、北欧音楽の素晴らしい異文化を届けるミュージシャンが登場します。悠情さん、望月雄史さん、Risaさんです。 よかったら「新しい繋がり」を感じにいらしてください。ラムのハンバーガーとボクモワインで人気のニュージーランドワインをご用意して待っています。ご参加フォームはこちらです。

文章と料理

文章と料理は似ている。 文章を書くには頭の中にある「伝えたいこと」が必要だ。 料理ならば「目指す味」。 誰かに伝えたいことがあるから文章を書く。食べさせたい味があるから料理を作る。 人に伝えたいこと。それをどう伝えるかを考える。言葉を選んで適切に並べる。そうして、伝えたいことが人にも理解できるような形となる。伝わると嬉しい。 食べてもらいたい味を目指して、食材を揃え、下ごしらえをし、調理する。美味しいと感じてもらえると嬉しい。 結局、文章と料理は、誰かに共感してもらうための手段なんだなと思う。 あ、違うか。自分が食べたいものを作る自炊も料理で、自分だけに向けた日記も文章だ。両方とも、自分を納得させるための手立てでもあるのだな。 今、新メニューの試作を4つやっている。 ひとつは、ボクモのグランドメニューにするもの。これはいつも通り、シェフといっしょにアイデアを出して、シェフに何回か試作をしてもらって、完成に近づけていくやり方。 今回は、初回でかなり「来たぞ!」というものができた。あとは微調整して写真を撮ってオンメニューまで一直線だ。 あとの3つは、今度のボクモの15周年パーティーで出す特別メニュー。シェフは別の準備が色々とあるので、僕が自宅で試作をして完成までもっていくことになっている。 メニューは「バインミー」「ラムバーガー」「ホットドッグ」と、どれも挟むやつ。 作ってみると、まあ悪くない。だけど「これはいいぞ!」と心躍るところに到達するにはまだまだ。 何回か作っているうちに、世の中の挟むやつは、微妙なバランスで成り立っていることがわかってきた。 パンと具。具の種類。味の濃さ。歯触り。冷たいと暖かいの温度差。どれも、ちょっと変えるだけで全体の印象がガラッと変わる。 だから、微調整を繰り返す。そして、ここでやめようというタイミングがどうにもつかめない。結果、延々と調整を続けているうちに、腹がパンパンになり、夜が明けている。 そしてふと思う。 これは文章を書くときとそっくりだ、と。僕は自分の書いた文を推敲するのがやたら好きだ。推敲し始めると、もっと磨けるのではないかと、ずっと撫で撫でしちゃう。やめ時がわからないのだ。 これは危険だ。 どこかでゴーサインを出さないと、永遠に料理の微調整と文章の推敲だけをやっている人生になってしまう。 ただ文章の場合、助かるのは締め切りの存在だ。締め切りがあるおかげで、「もうこのへんで撫で回し終了!」と見切りがつけられる。 そうだ。まだパーティーの開催日まで時間の余裕があったから、試作&微調整を繰り返してしまっていたのだ。 よし。次の試作は直前のぎりぎりにやろう。そうしたら「もうこれで完成」と諦められるし、あとはドキドキしながらお客さんの反応を待つしかない、と腹をくくれる。 料理も文章も、タイムリミットを有効利用すれば、自分から手放し、相手に委ねることができるんだな。 やはり、料理と文章は似ている。   === 音楽と飲食であなたを挟みます。 ボクモ15周年パーティーは、11/15(金)16(土)17(日)の3日間開催。15日はご予約にて満席。16日(アイルランド&北欧音楽)、17日(ボクモ文化祭)はまだ空きがあります。...

暗い店に学ぶ

仕事柄、「おすすめの飲食店は?」と聞かれることがよくある。 名古屋の名物を楽しめる店を教えるのは案外簡単だ。名古屋には、グルメ界で無双の存在・大竹敏之さんというライターがいて、彼の書籍から少しピックアップすれば、名古屋の「らしさ」を堪能できる店を紹介できる。 最近だと、SNSで話題になった「コデランガイド」という一冊が秀逸だ。この小冊子は、名古屋大学病院の小寺教授と、彼の率いる消化器・腫瘍外科の先生方が、学会の際に配るためにつくったグルメ本で、大竹さんも編集に協力している。 名大病院の先生たちが自ら取材した170軒以上の店が載っていて、「地元の人が通う店が一望できる!」と大評判なのだ。無料配布にしてはクオリティが恐ろしいくらい高く、地元民でさえ唸る内容だ。 (ちなみにボクモも載せてもらっている。わざわざ先生方がラムチョップとNZワインをたらふく召し上がりに来てくれて、取材してくれた。感謝しかない。) とはいえ「若者に人気の店」となると、話は別だ。 僕は世間の飲食店事情を把握しておかねばと思ってはいるが、夜はだいたいカウンターに立っているし、そうでない時は原稿を書いている。流行りを追っかける余裕がないのが実情だ。 そこで頼りになるのは、カウンター越しに集まる若いお客さんからの情報だ。外食好きの彼らに「最近、どこか良かった?」と尋ねると、いろいろ教えてくれる。 それを元に先日、思い切って流行の店に行ってみたのだった。 きっかけは、名古屋にやってくるあるインポーターの方から「ボクモワイン×インポーターで、今後の展開の打ち合わせをしませんか?」と誘われたため。 せっかくだから流行りの店でご飯を食べながら打ち合わせをしようと思い、いつもより早めに原稿を片付けた(いつもこうすれば、もっと飲食店に行けるんじゃないの?←正論)。 予約した店は、予想どおり若者だらけ。後ずさりするほどのスタイリッシュさで、とんでもない金額がインテリアに投じられていることがうかがえた。 しかし、僕が何より驚いたのは、店内の暗さだ。 もう、圧倒的に暗いのだ。 まずメニューが読めない。テーブルにあるライトを近づけてもギリギリ。もっと大きな字で書いておくれ。 そして、暗すぎて、運ばれてきた料理もワインも色がまったくわからず。何を口に運んでいるのかわからないのだ。 食べながら、これ何だっけ?と考えて、頼んだ料理をメニューで確認しようと思ったが、またライトを近づけて小さな字を見るのが面倒で、結局見ない。今、自分が何を食べているのか、本当にわからなかった。ワインの色もへったくれもない。 キャンプ用のヘッドライトを持ってくれば良かったぜ! ・・・と、僕は別に悪口を言っているわけではない。 だって、これでちゃんと流行っているんだから。それは実に素晴らしいことだと心から思う。 世の中は、自分の価値観だけでは成立しているわけではまったくない。自分が勝手にどうかな?と思ったやり方だったとしても、お客さんからの需要さえあれば、当然やっていける。誰かのイマイチは、別の誰かのイケてる。世の中そんなことだらけだ。 そしてこういう体験が、僕の勇気に繋がる。 たとえ今週はヒマだなあと思っても、アイデアを出して改善したら、来週は「お客さんの需要があるゾーン」にたどり着けるかもしれない。リーチできていないところに、まだまだお客さんはいるはずなのだから。 飲食だって、通販だって、ひと工夫で未来が変わる。それが楽しいのだ。 店は暗くても、先は明るい。そんなことを感じた一夜だった。

温存する知恵

岐阜の金華山に登るのにハマっている。 家からの距離も遠足みたいでちょうどいいし、登るルートもいくつかあるので難易度が選べる。下りた後に銭湯に浸かって、岐阜の駅前で軽く食べて。 すべてが僕にとってちょうどいい。 こないだの祝日も、そんなちょうどいい金華山ルーティーンを楽しもうと、また出かけた。 そして最寄りの駅からJRに乗るため、地下鉄の長いエスカレーターに乗っていたときのこと。 ふと横を見ると、そこには勢いよく階段を登っているトレーニングウエア姿の若い男性が。 そのとき、思わず笑いがこみ上げた。 トレッキングシューズにマウンテンパーカー、リュックという山登り装備の僕。そのくせに、エスカレーターで優雅に運ばれている。 一方で、横のアスレティック男子は一生懸命階段を駆け上がっている。 涼しく運ばれる僕と、はあはあ言って登る彼。 エスカレーターを降りたとき、視線が合った。そしてじろりと僕を見る彼の目はきっとこう言っていた。 「これから山を登るんだろ?じゃあ、なんで階段は登らないんだよ。」 ごもっともだ。わかるよその言い分。登るんなら、ここから登れよ。それ正論。その昔、ジム通いしていたときの若き僕はあなた側だったよ。 でもね、時は経ったのさ。 頼む。今は足腰を温存させてくれ。これから山で大変なのに、その前の都会でも大変って無理なのよ。 彼の視線を感じ、心でそんな長い言い訳をしていた。 そしてそんな自分に、苦笑いしてしまったのだった。 その後JRの車内で、僕は以前家族と行っていたキャンプを思い出していた。 お気に入りの中津川のキャンプ場は民家がすぐ横にあった。民家の隣で僕らはわざわざ不便なテント生活でキャッキャやっていたな。 きっとあの家の住人たちは、僕たちを「なんで?」と笑っていたに違いない。 ああ、そうだ。僕らは日常と非日常を使い分けている。 普段は文明の恩恵を最大限に受けながら、たまに 「自然」という非日常のエンターテイメントに飛び込むのが好きだ。 飛び込んだとき、価値観のスイッチが切り替わる。 山、キャンプ場。そこでは便利で合理的すぎるものはダメで、不便で非合理が良いとなる。 つまり、そのレジャーの最中にいる一瞬だけ、僕らは文明を否定する。「ああ、自然っていいなあ」などと言う。そしてまた便利な都会に悠々と帰ってくるのだ。 ぬるい。 でも、そのぬるさが僕は大好きだ。僕にとっての非日常体験って、便利なところにすぐに戻れる安心感があるからいいと思えるのだ。求めているのは無理のないスパイス感。 だいたい文明、たまに自然。まったくかっこよくないけれど、それが僕にとってはちょうどいい。 夕方、ガクガクになった足で、駅まで戻り、またエスカレーターに乗りながら朝の彼を思い出す。やっぱり温存しておいて正解だった。最初から飛ばしていたら怪我をしていたかもしれない。...

常連認定

これはカウンターでたまにあるシチュエーション。 初来店のお客さんが、お隣の方が食べているメニューを見て。 初「すみません、それってどのメニューですか?」 隣「ああ、これはシェパーズ・パイです。美味しいですよ。」 初「じゃあ私もそれにしようかな。ところで、常連さんなんですか?」 隣「えーっと、常連っていうか・・・」 と言って、僕の方に視線を送る。 これ! 困るやつ!!! お隣さんが、自他共に認める常連さんならば、問題ない。 ただ、常連客であるという認識って、人によってまちまちで、どちらかと言えば、「店側が認定するもの」と考えている人が多い気がする。 何度も来ているけれど、常連かと尋ねられた今、果たして私は、自ら常連と名乗って良いものか。 どうなのよ、ねえ、マスター? そんな感じで僕の表情をうかがう。 困っちゃうなあ。 正直に言えば、月に1回以上来ていただいていたら、僕の中ではれっきとした常連さんだと思っている。 でも、年に数回だと、ちょっと言いにくい。 ただ、そういう方でもこの店を好きで来てくださっているわけだから、「はい、常連さんです」とためらわずに言ったら、きっと丸く収まるんだろう。 いや、待てよ。そうじゃないかもしれない。 だって、常連という言葉って、人によっては重荷に感じるかも知れないぞ。 「あ、この瞬間に常連認定された。ということは、もっと通わなくてはいけないのか。」 そうなると、自分のペースで来にくくなる。そして、店のお墨付きをもらったというプレッシャーのせいで、かえって足が遠ざかる。 そんな可能性だってあるでしょう。だって、店は義務で行くもんじゃないから。 むむむ。難しい。 そして、僕はだいがいこう言ってしまう。 「いつもお世話になっています。」 ザ・曖昧!!! そう。こういうときは、どうとでも取れる、玉虫色の表現に頼るしかないのです。 でも、なんだか逃げている気がするんだよなあ。いっそのこと、常連さんステッカーでも作って、配ろうかしら。 いや待て。「私、ステッカーをもらえなかったから、常連じゃないんだ」とか、そういう要らんトラブルが起きそうじゃないか。...

ボクモ15周年パーティー

ある日、ふと気づきました。 「あれ?これって挟んでない?」と。 ボクモって、入り口を入ったらすぐにテーブル席があって、少し進むと僕がカウンターでワインを注いでいます。 僕の後ろは壁です。 そして、この小さな箱の僕の反対側の壁にいるのがシェフです。 壁と壁。シェフと僕。料理とワイン。 毎日、真ん中に来るお客さんを挟んでるじゃない! 料理とワインは、それぞれ単独でも楽しいもの。 でも、それが同じ空間の中で、調和したものとなるとき、その楽しさはそれまでと比べものにならないほどにふくらみます。 そのムードは笑い声となり、暖かい空気となり、ときには熱気を帯びて、どんどんふくらみ続けます。 そして、お客さんが帰った後も、ふわふわと残る笑い声の残像が漂っているのを感じます。 あのお客さん、楽しそうに過ごしていたな。良い表情をされていたなって。 で、そんな日々を重ねて、気がつけば15年。 感謝の気持ちを込めて、パーティーをやりたい。 そう思ったとき、この挟むというキーワードがふと浮かびました。 ボクモ15周年PARTY「挟みます。」 〜ワインが右から、料理が左から、そして音楽が前から後ろから迫り、あなたを完全に挟みこみます。  それは五感を包み込む圧倒的な体験。  この挟み撃ちに逃げ場はありません。  美味しさと楽しさの猛攻に、ぜひ撃ち抜かれてください!〜 ■開催日: 2024 年 11月 15日(金) 16日(土) 17日(日) ■開催地: ボクモ ■イベント概要:...

ラベルで味が分かるのか

「ラベル見ただけで、そのワインの味がわかるんですか?」 カウンターでたまにそう聞かれることがある。 「もちろん、プロですから!」と胸を張りたいところだけど、実際は、そんなに簡単なもんじゃない。 15年ほどワインにまみれてきたけれど、瓶の外から味が透けて見えるほどの超能力はまだ身についてない。修行は続くばかりだ。 でも、ニュージーランドワインに関してだけは、ラベルを見ただけでちょっとした中身のヒントを感じ取ることができる。 なぜかって?それは、ニュージーランドのラベルは驚くほどシンプルだから。ロゴと文字だけの潔いデザインが主流。無駄を省いた、究極のミニマリズム。これが、NZスタイルだ。 なぜそんなにシンプルかというと、おそらく家族経営の小さなワイナリーが多く、ラベルに凝る時間も予算も限られてるからだと思う。そして、大半のワインが輸出用だから、海外の人たちにもわかりやすいシンプルデザインを採用しているんだろう。 そんな事情があるから、ニュージーランドは「シンプルラベルの国」になっているんじゃないか、というのが僕の仮説。 で、毎日そのシンプルラベルを眺めていると、だんだんと中身を推測するコツがつかめてくる。 というわけで、今日は僕が普段使っている「ニュージーランドワインのラベルのパターン分け」をご紹介したい。 1)とことんシンプル 「ワイナリー名」「産地」「ぶどう品種」「収穫年」の4つだけが書かれている超シンプルなパターン。いわば、ラベル界の白Tシャツ。 ニュージーランドワインは、産地とぶどう品種さえわかれば難しくない。パターンをつかめば俄然楽しくなるのがNZワインの醍醐味だ。初心者にも優しい。 ただ、この「超シンプルラベル」には一つ厄介な点がある。全ラインナップがほぼ同じデザインに見えてしまうことだ。つまり、上級ワインでも、パッと見はエントリーレベルと区別がつかないことがあるのだ。 よく見ると、上級ワインには「産地」のところに「小区画」や「特別な畑」の情報がさりげなく書かれているが、これがあまりにも控えめで、目立たない。 ワインの世界では、ぶどうが育った区画が狭くなればなるほど高級品とされる。けれど、ラベルのデザインの違いがあまりにも少ないと、その高級さが一目ではわからないのが問題だ。 でも、慣れてくるとその微妙な違いに気づくようになる。「おっと、見た目は似てるけど、実は高級ワインだぞ」と見抜けるようになるのだ。コツをつかめば誰でも。 2)シンプルだけど、クラス分けがしっかり このパターンは、エントリークラスと上位クラスのデザインが一目でわかるもの。たとえば、エントリーは軽やかな白ラベル、上位は重厚感のある黒ラベルとか。 さらに上級クラスになると、金色のロゴやエンボス加工を使ったり、特別なボトルデザインに凝りはじめる。こうなると「ああ、これは本気のやつだな」と直感的にわかる。 我々にとって一番親切なスタイルだと思う。もっとこのタイプが増えて欲しい。 3)ワイン1本1本に特別な名前とデザイン そして最後は、ナチュラルワインに多いパターン。ラベルデザインが銘柄ごとにまったく異なり、ぶどう品種すら書かれていないことがある。 ここまでくると、開けてみるまでどんな味なのか全然わからない。ドキドキ感はあるけれど、推測がまるでできないので、ワイン選びにおいてはなかなかの難敵だ。 と、こんな感じに大まかにわけて、日々、中身をあれこれ想像しながら涎を垂らしているわけだが、さて、ここからが本題。 上の2つ目のパターン「エントリーと上位の違いが見た目でわかる」を採用しているワイナリーが、今度ボクモにやってくるのだ。 そう、言いたかったのはこれなんです。話が回りくどくてすみません。 先日のペガサス・ベイに続いて、この秋2回目のワイナリー来日イベント。今回は、ホークス・ベイの名門「トリニティ・ヒル」の登場だ。 このトリニティ・ヒルのエントリーラインは白のシンプルラベル、特別な区画の畑から作られる上位ラインは高級感のある黒ラベル。実に分かりやすい構成である。 トリニティ・ヒルの得意なワインはシャルドネ、メルロー、カベルネ、シラー。そうなのよ、濃厚なワイン好きにはたまらないラインナップとなっておるのよ。...

そのままでいい

「そのままでいい」 エドワードさんはそう笑って言った。 先日、ニュージーランドのワイナリー「ペガサス・ベイ」からマーケティング・マネージャーのエドワードさんをボクモにお招きしたときのこと。 ボクモの他にニュージーランドワインのオンラインショップも運営しているんですよ。そう伝えると、彼は興味津々で、「どんなサイトか見せてくれないか?」と言ってきた。 iPadを手に取り、通販サイトを見せる。彼は、知っているワイナリーを見つけるたびに「うん、なるほど」と頷きながら、画面に釘付けだ。 「ノース・カンタベリーのワイナリーだけでソートできる?」 彼のワイナリーが位置するのはノース・カンタベリー。どうやら日本で他にどんなワイナリーが扱われているか知りたかったらしい。さすがマーケティング・マネージャー、他社の動向のチェックにも余念がない。 「もちろん」と言ってページを見せた瞬間、彼はにんまり。 「そのままでいい」 そう、ノース・カンタベリーのワイナリーはペガサス・ベイだけ。競合なし、というわけだ。 僕は「いや、それは実はですね…」と言いそうになって口をつぐんだ。 正直、ノース・カンタベリーのワイナリーは数が少なく、扱っている日本の輸入業者も限られている。だから、うちでも積極的に他のアイテムを揃えられていないだけ。 なのだけれど、まあ、そんな言い訳は不要だなと思い直した。彼の満足げな顔が全てを物語っているではないか、と。 用意した牛頬肉のパスタに、ペガサス・ベイの赤ワインを合わせると「これ、最高に合うね!」と絶賛。元々ワイナリー併設のレストランで働いていた彼は、日本でのペアリングもしっかり確認していた。 トークは想定以上に盛り上がり、ときに会場は笑い声に包まれた。お客さんとのコミュニケーションもしっかり取ってくれて、会の終わりには即売&サイン会も実施。彼は終始にこやかで、良い「ノリ」があった。 そう、盛り上がる会には必ずゲストの良いノリがある。 昔、ラジオのディレクターをやっていた頃も、そう感じていた。番組のゲストが心から楽しんで話していると、その感情がリスナーにも伝わり、場の空気が一気に弾む。 ディレクターからソムリエになり、海外のワイナリーを迎える立場に変わったけれど、結局、根本は同じだ。ゲストが楽しいと、お客さんも楽しい。その関係があってこそ、会は成功するんだと改めて思った。 ただ、ひとつ反省点がある。 それは、「名古屋の人は一度気に入ると、末永く愛してくれるんですよ」と伝えそびれたこと。 実際のところ、海外からのプロモーションツアーの中に、名古屋が入ることはなかなか多くない。それでも、わざわざ来てもらった以上は、「名古屋に来てよかったな、また行きたいな」と思ってもらわなければならない。これ、地味に大事なポイント。 今回は幸運にも、熱心なワイン愛好家やニュージーランド好きが集まり、エドワードさんの話を真剣に聞いてくれた。彼らの目の輝きを見て、きっと今後訪れる特別な日に「ペガサス・ベイで乾杯しよう」となると思った。 そう、名古屋の人たちは情が深い。気に入ったものは、長く愛し続けるタイプなのだ。これは自信を持って言える。 だからこそ、エドワードさんにそのことをちゃんと伝えるべきだった。「名古屋に来てくれたから、あなたのワインはこれからも大切にされますよ」と。もしそう言っていたら、彼ももっと名古屋を特別な場所として感じてくれたかもしれない。 でも、まだチャンスはある。来年、僕はニュージーランドに行く予定で、もちろんペガサス・ベイにも足を運ぶつもりなのだ。その時には、きっとこう伝えよう。 「名古屋の人たち、あなたのワインに夢中になりましたよ。これからも、ずっと愛され続けるはずです。」 そう伝えるときのエドワードさんの表情を、今から想像している自分がいる。 ・・・と、今回「です・ます調(敬体)」でなくて、「だ・である調(常体)」にしてみました。 どう?そのままでいい?いや、やっぱりちょっと威圧的かな・・・。