家からの距離も遠足みたいでちょうどいいし、登るルートもいくつかあるので難易度が選べる。下りた後に銭湯に浸かって、岐阜の駅前で軽く食べて。
すべてが僕にとってちょうどいい。
こないだの祝日も、そんなちょうどいい金華山ルーティーンを楽しもうと、また出かけた。
そして最寄りの駅からJRに乗るため、地下鉄の長いエスカレーターに乗っていたときのこと。
ふと横を見ると、そこには勢いよく階段を登っているトレーニングウエア姿の若い男性が。
そのとき、思わず笑いがこみ上げた。
トレッキングシューズにマウンテンパーカー、リュックという山登り装備の僕。そのくせに、エスカレーターで優雅に運ばれている。
一方で、横のアスレティック男子は一生懸命階段を駆け上がっている。
涼しく運ばれる僕と、はあはあ言って登る彼。
エスカレーターを降りたとき、視線が合った。そしてじろりと僕を見る彼の目はきっとこう言っていた。
「これから山を登るんだろ?じゃあ、なんで階段は登らないんだよ。」
ごもっともだ。わかるよその言い分。登るんなら、ここから登れよ。それ正論。その昔、ジム通いしていたときの若き僕はあなた側だったよ。
でもね、時は経ったのさ。
頼む。今は足腰を温存させてくれ。これから山で大変なのに、その前の都会でも大変って無理なのよ。
彼の視線を感じ、心でそんな長い言い訳をしていた。
そしてそんな自分に、苦笑いしてしまったのだった。
その後JRの車内で、僕は以前家族と行っていたキャンプを思い出していた。
お気に入りの中津川のキャンプ場は民家がすぐ横にあった。民家の隣で僕らはわざわざ不便なテント生活でキャッキャやっていたな。
きっとあの家の住人たちは、僕たちを「なんで?」と笑っていたに違いない。
ああ、そうだ。僕らは日常と非日常を使い分けている。
普段は文明の恩恵を最大限に受けながら、たまに 「自然」という非日常のエンターテイメントに飛び込むのが好きだ。
飛び込んだとき、価値観のスイッチが切り替わる。
山、キャンプ場。そこでは便利で合理的すぎるものはダメで、不便で非合理が良いとなる。
つまり、そのレジャーの最中にいる一瞬だけ、僕らは文明を否定する。「ああ、自然っていいなあ」などと言う。そしてまた便利な都会に悠々と帰ってくるのだ。
でも、そのぬるさが僕は大好きだ。僕にとっての非日常体験って、便利なところにすぐに戻れる安心感があるからいいと思えるのだ。求めているのは無理のないスパイス感。
だいたい文明、たまに自然。まったくかっこよくないけれど、それが僕にとってはちょうどいい。
夕方、ガクガクになった足で、駅まで戻り、またエスカレーターに乗りながら朝の彼を思い出す。やっぱり温存しておいて正解だった。最初から飛ばしていたら怪我をしていたかもしれない。
「よお、若者。人生も山登りも、力を抜くポイントを見分けるのが真の技術なのだぞ。」
なんてね。だはは。非常におっさんっぽい言い訳だ。