食べ物へのときめき

食べたいものが食べられる。飲みたいものが飲める。

考えてみたら、それって当たり前のことではないな、と思います。

ちょっと前のある日、ボクモの近所の病院で人工透析をしている方が、通院帰りに寄ってくださいました。

「本当は水分をとっちゃいけないから、よくないんだけどね。でも、どうしてもワインが飲みたい気分だったから」

そう言って、愛おしそうに、大事に大事にグラスを口に運ぶのを見て、ちょっと切ない気分になりました。

またある日、カウンターで「実はこの間、母親が亡くなってしまって。母親がつくる煮物がもう食べられないんだと思うと、寂しさを感じてしまいますね。」

そんな話を聞き、心がぎゅんと締め付けられました。

食べたいものや飲みたいものが、健康上の理由で、味わえなくなる。物理的に再現不可能になり、味わえなくなる。

僕も人生後半戦。これからはそんなことが増えていくのかな、と思います。

そう思うと、一回一回の食事をもっと大切にしなきゃ、と反省します。

飲めなくなって、食べられなくなったとき。

そのときに悔いが残らないように、今目の前にある食事をせいいっぱい味わうことができているだろうか。

いや、全然だ。

忙しさの中で、生命維持のため、空腹を満たすためになんとなく選択している食事がなんと多いことか。

飲食店をやってるのにこれじゃあダメです。食べ物や飲み物に対する構えが不真面目だ。

もっと向き合わなくては。

そうだ。自分の日常の中に「食べ物へのときめき」を積極的に入れていかなくてはいけないんだ。

待てよ。僕のときめきランキングで上位に入るあれ、季節的に今だった。

食べよう、ときめこう!

あれとは、「朴葉寿司(ほおばずし)」です。

岐阜の方はご存じの方も多いと思います。

朴葉寿司は、柔らかい朴の新葉が手に入る初夏だけのぜいたく品。

地域によって、家庭によって、中に入れる具材はだいぶ違います。鱒、鯖、鮭、鮎、ふき、紅ショウガ、しそなどなど。

昔から、僕は岐阜出身の母のつくる朴葉寿司をこの季節に食べていました。

最近は義母(こちらも岐阜出身)が毎年つくって送ってくれます。

青二才の頃は「葉っぱにくるんだ山の寿司なんて地味だよなあ、マグロのにぎりの方がいいなあ」なんて思っていました。

しかし、年を経るにつれて「酢飯に移った朴の葉の香りがたまらん」となってくる。この時期に必要な香りになってくるのです。人間、熟すのも悪くない。

カウンターでそんな話をしていたら、岐阜出身の常連さんが、「うちの実家の近くの飲食店がつくった朴葉寿司、すごく美味しいんです。クール便で配送もやってますよ」と教えてくれました。それは聞き捨てならぬ。

というわけで今回、「お店の朴葉寿司」を取り寄せました。

箱を開けた瞬間、思わず笑みがこぼれました。なんと美しい。

朴葉寿司

食べて納得。やはり飲食店の味。ひとつひとつの仕事が丁寧。具材も手が込んでいます。

心が躍り、食べ終わる頃には名残惜しくなりました。

ああ、ときめいた!

こういう経験が必要だったんだ。

僕にとっての食べ物へのときめきを説明するならば、たぶんこうです。

記憶の中にある美味しさが、今また目の前に現れる。あのときとまったく同じではないけれど、記憶を蘇らせる味である。すると、自分の歴史の中で、点と点が線で繋がる。

あのとき食べた過去の自分と、今食べている現在の自分に橋が架かる。すると、自分はそこを歩いてきたんだという実感が生まれる。

時間を超えて存在する食べ物に、「君は君という人生を送ってきたね」という証をもらえる。

それが嬉しくて、心が動くんじゃないかと思うのです。

 

翻って、僕らはどうだ。

僕らが日々提供している料理やワインもそうありたい。

あの店で食べたラムチョップステーキ、良かったね。久しぶりにまたあの店に食べに行こうか。

あの通販で買ったワイン、誕生日に開けたとき、美味しかったね。今度のキャンプにも持って行こうか。

そんなふうに使って頂けるようにしなくては。

まだまだ道のりは長いです。

ワインバーのボクモはこの7月で14年。ワイン通販のボクモワインはこの7月で2年。

いつか、誰かの「美味しい記憶の点」になれるよう、毎日こつこつやっていくとしましょう。

この記事の筆者

岩須
岩須 直紀
ニュージーランドワインが好きすぎるソムリエ。
ニュージーランドワインと多国籍料理の店「ボクモ」(名古屋市中区)を経営。ラジオの原稿書きの仕事はかれこれ29年。好きな音楽はRADWIMPSと民族音楽。

一般社団法人日本ソムリエ協会 認定ソムリエ

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ボクモワイン代表 岩須直紀

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