月一のバス

僕は基本的に店と家を往復する毎日です。

日曜日と火曜日は書く仕事をしていて、家から一歩も外に出ないこともあります。

時世が変わって、いろいろと動けるようになっても、僕の場合、まだそれほど行動範囲を変えることができていません。なんだかコロナによって「動き回る筋肉」がそぎ落とされてしまったのかもなあ、なんて思ったり。

ただ、最近ちょっと変化が起きたのは、月に1回バスに乗るようになったこと。

これまで、バスとはほぼ無縁の生活を送っていました。

もともと極度に乗り物酔いしやすい体質で、小中のバス遠足は酔い止め薬必須。手首にマジックテープで固定するおまじない的なバンドを、毎回「頼むぞ」と念じてはめていました。

最も苦手なのがあの特有の匂いです。あれを嗅ぐだけでげんなり。パブロフの岩須、いとも簡単に酔ってしまう。薬よ、バンドよ、もっと守ってくれたまえ。そんな願いもむなしく、毎度お決まりのように遠足の半日くらいは台無しになっていました。

そういう昔のネガティブな記憶はこびりつくもので、大人になってからも僕はバスはなるべく遠ざけていました。

しかし、こないだ市バスに久しぶりに乗ってみたら、びっくり。

まったく大丈夫なのです。

昔と比べてバスの匂いや揺れが少なくなったのか、加齢による鈍感力が増したのかは定かではありません。が、大丈夫なのです。

流れる景色を楽しむ余裕すらあります。

こっちの道は意外とすいてるなあ、とか、知らぬ間に新しい店ができたんだ、とか。

そのきっかけをくれたのは「いきつけの美容室の移転」です。

僕は自分の店を開店してから14年、同じ美容師さんに髪を切ってもらっています。その美容師さんが、今年の春、店を移転されました(正確には再独立、みたいな感じ)。

その店が地下鉄の駅からけっこう遠く、バスでないと通いにくい場所になってしまったのです。

バスかあ。これまでまったく生活に入ってなかったけど、乗ってみるか。

だって、14年も僕の頭の具合をわかってくれているということは、たいへん価値があることだもんな。40代も後半になってくると、良好な人間関係を継続することの尊さ、ひしひしと感じます。

予約を入れ、はじめて新店を訪れた日。

最寄りのバス停まで歩いて、バスを待つ。どの系列のバスに乗れば良かったんだっけ、とバス停の案内を見て確認する。待っている間に喉が渇いて、自販機でお茶を買う。

あ、これ新鮮だな、と思いました。バスを待つという小さな体験ですが、ルーティーンとは違うことをしているという、ちょっとした緊張感を伴う楽しさを感じます。

バスが来て、乗って、カードをタッチ。よし、うまく乗れた。

どこに座ろうかな。こっちは日が当たるから反対側かな。

あれ?バスが進まない。あ、そうか、僕が席にすっと座らないから、運転手さんが発車できないんだ!バスの先輩のみなさん、ごめんなさい。

座ると、流れる景色がちょっと高い。遠くまで見える。あ、あのコンビニはチョコザップに変わったんだ。

そうだ。自分が降りるバス停、どこだっけ。復習しておかなきゃ。ええっと飯田町だ。平田町の次ね。よしよし。

止まりますボタン、近くにふたつあるけど、どっちを押そうかな。

よし、次が飯田町だ、と思った瞬間、やられた!

前に乗ってる白髪パーマのおばちゃんに先を越された。早押しに負けて、なんだか悔しい。来月はぜったい負けないぞ。

バスを降りて歩く道。

これがまた新鮮な体験。古くて立派なお寺の脇を通る。たしかこのあたり、武家屋敷だった場所なんだよな。なにか、街が凜としている感じがする。

お寺、公園、旧家、料亭。毎回歩くたびに新しい発見がありそうだな。

古い屋敷の門をくぐったところに、新しい店「This is a pen.」の扉がある。面白い名前つけたなあ。

扉を開けると、「いい場所でしょう。」と美容師さん。

「ほんと、素敵なところですね。」

ハロー、僕にとって新しい、古い街。

ハロー、僕にとって新しい店の、古いつきあいの美容師さん。

美容室の引っ越しが、僕の衰えかけた筋肉をすこし復活させてくれる気がします。

ありがとう。月に一度の小冒険、楽しめそうです。

持つべきものは、凝り固まった行動パターンをほぐしてくれる存在、なのかも。

美容院の門

美容院の看板

この記事の筆者

岩須
岩須 直紀
ニュージーランドワインが好きすぎるソムリエ。
ニュージーランドワインと多国籍料理の店「ボクモ」(名古屋市中区)を経営。ラジオの原稿書きの仕事はかれこれ29年。好きな音楽はRADWIMPSと民族音楽。

一般社団法人日本ソムリエ協会 認定ソムリエ

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ボクモワイン代表 岩須直紀

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